『思い出のマーニー』 (ジョーン・G・ロビンソン著、高見浩訳、新潮文庫)

――里母との和解と出自を知る物語

『秘密の花園』の主人公メアリは当初「偏屈」で、そこからの回復だったが、『思い出のマーニー』の主人公アンナはひとり空想にふける“夢見る夢子”である。そして、メアリが自分の回復だけではなく、さらに住んでいる邸の課題にも取り組むのに比べ、アンナは里母プレストン夫人との和解が課題となっている。夫人の元から離れ、静養に出かける。静養の地で、現実と非現実を生きながら、物語の後半は自分の出自にかかわる展開となる。そして夫人と和解することになる。

物語はアンナが列車で旅立つ場面からはじまる。「いい子でいるのよ。楽しくすごしてね」というプレストン夫人の言葉を素直に聞けないアンナ。「トランクは網棚の上よ。コミックはレインコートのポケットに入っているから」。それ以外にもなにかと世話を焼く。あげく「トランクの内ポケットに、宛名も書いて切手も貼ってある葉書が入っているから、無事に着いたってことだけでいいの、知らせてちょうだい」。直接は書いていないが、心の離れているアンナにはうっとうしいだろうと読者も思う。里親に限らないが、いや里親だからこそ、こうした過干渉気味の養育者は多いことだろう。

列車のなかで、アンナは最近を回想する。一日の大部分を何も考えずにすごしていた。何事にも関心が持てない。「パーティとか、親友とか、お茶に招かりたりすることが素晴らしいのは、あくまでも自分以外の連中にとってなのだ」。ここでアンナの独特の考えが述べられる。「そういう連中はみんな“内側”の人間、何か目に見えない魔法の輪の内側にいる人間」。「その点、アンナ自身は“外側”にいる人間だから、そういうことはすべて自分とは無関係なのだった」。この考え方は物語の最後にも語られる。そのせいか「頑張ろうともしない、という、日頃の態度の問題もあった」。心ここにあらず、という日常の過ごし方は里親家庭にやってくる子どもたちにもいえることだろう。自分でも理解不能な重圧。自分とは無関係に、どんどん変化していく環境に慣れることもできない。こうしたなかで、不登校になる子どもも多い。

アンナはぜんそくの発作で2週間近く学校を休んでしまう。学期末の夏休みまではまだ6週間もあったが、プレストン夫人の旧友(ペグおばさん)に手紙で頼んだところ、環境のいいこちらにいらっしゃい、ということで行くことになった。そういう事情でいまアンナは列車に乗っているのだ。

プラットフォームでペグおばさんに会う。田舎道をバスに乗って景色を見る。海や日に照らされた大きな湿地が広がる。そこでバスを降りる。ペグおばさんの連れ合いのサムを紹介され、家を案内される。ベッドわきに刺繍で青い錨の模様がありその上に“良きものをしっかりつかめ”という言葉が縫い込まれている。錨と“良きものをつかめ”という言葉はその後の物語の展開のキーワードにもなってくる。

下に降りていくと、サムが「あんたの里親さんはどうしてる」と聞く。ペグおばさんは「ママが元気かって」聞いているとサムの言葉を翻訳する。アンナは「お母さんは死にました」と答える。「お祖母さんも亡くなっとるだろう」とサム。噛み合わない勘違いの会話だが、この“亡くなったお祖母さん”が結末では重要になる。里母のことを何と呼んでいるか、アンナは、ときどき「おばさま」とは呼ぶが、とくに誰と名前を付けて呼ぶことはない。

「無事につきました」と葉書を書くが、文末に「愛情のこもった言葉を添えたくなっ」たが、どう言っていいのかわからない。葉書を出しに郵便局に行く。帰り道は誰もいないので、行儀よく振る舞う必要もないし何かを気に掛ける必要もない自由な気分だった。しかしそれがどこかうつろなものでもある。アンナは少し横道にそれてみる。入り江があって、船着き場には小型のボートが係留されていて、別世界のようだった。水ぎわまで行って靴下と靴を脱いで水の中に入る。人影はどこにもないのに誰かに見られているような感じがした。

そこで館を発見する。館は「入り江に真っ直ぐ面していて、大きく、古めかしく、方形をしていた。小さな窓がたくさんあって、どれもが色褪せた青い木枠にふちどられていた。こんなにたくさんの窓がこちらを見つめているのだから、だれかに見張られているような気がしたのも無理はない」。『秘密の花園』にも大きな邸が出てくるが、風の強い荒野の中に建っている。こちらは入り江の先に夢のようにあらわれる。「自分のやってくるのをあらかじめ予期して、自分を見守り、自分が振り返ってそれに気づくのを待っていたような気がした」。帰ってサムおじさんに聞く。「湿地の館だな」とは言うが、それほど気には留めない。

この言葉が、逆に、アンナが特別に感じているのを際立たせている。

翌日も船着き場に行って古い館を見る。誰も住んでいないにもかかわらず、住んでいるような雰囲気がある。ワンタメニーと言う不愛想な小柄なおじいさんの舟に乗せてもらい、館を近くで見ることになる。『秘密の花園』にも老人が出てくる。不愛想で、主人公と似た気質の老人が果たす役割は二つの小説に共通している。

アンナは何も考えないでいることがなくなって、ほとんど一日中、“湿地の館”のことを考えるようになった。アンナの中で変化が起こりつつある。ある日の夕暮れ、館に灯りがともっているのに気づく。しかしそれは窓が夕日を照り返しているにすぎなかった。現実とイルージョンが交錯する。ある日の夕方、ボートに乗ったアンナとワンタメニー。アンナは湿地の館の方を見ると、二階の窓の一つに少女の姿が映っているのがはっきり見えた。髪をブラシでとかしてもらっている。けれどもワンタメニーは船着き場の方を見ていて、気づいたそぶりがない。

アンナはこの頃、近所の同世代の女の子と会うが関係はうまくいかない。そうしたことで「自分以外の人間も、みんな憎らしかった」。自室で刺繍の額を見る。錨と“良きものをつかめ”という言葉からもっともかけ離れているのが自分だと思う。アンナは「自分は醜くて、馬鹿で、気立てが悪くて、間抜けで、恩知らずで、行儀が悪くて」。だから誰にも好かれないのだと。そして、アンナは回想する。「夫人(里母)はいつも優しいのだが、どうしようもない心配性」「好きなだけ自分が泣いても黙って見ていてくれる人がいたら、どんなにいいだろう」「ずっと昔、ホームにいたときもそうだった」と。

さて、ペグおばさんが晩に出かけて行って帰りが遅くなるという。アンナは船着き場の方に行く。小さなボートが繋がれていて、それに乗ると、ひとりでに“湿地の館”の方角にボートは進んでいた。「自分が漕いでもいないのに、ボートが進んでいるのに気づいた」。人の声が聞こえる。笑いを含んだ、かん高い、子どもの声だった。「さあ! ロープをこっちに投げて!」。

きれいな金髪の少女は「だれかに聞かれるとまずいから」と秘密めいていて、アンナは夢なんじゃないかと思う。上の階では音楽が漂い、笑い声やにぎやかな話し声が聞こえる。二人だけの世界が際立つ。二人でボートに乗って、アンナがマーニーに部屋を確認すると、先に見た、髪を梳かしてもらっていた部屋だった。マーニーはアンナに「あなたはわたしの大切な秘密」と打ち明ける。そして「あなたって、幽霊みたい」と言う。マーニーがそう言うことで、二人ともに存在感がないイメージに読者は踏み出さざるを得ない。アンナは帰り道、「よく思いだせない。でも、何か素晴らしいことが起きたらしいのはたしかだった」と思う。

里親家庭を描いた代表作『赤毛のアン』のアンも夢見る少女ではあるが、精神の健康さでいえばアンのほうがはるかに健康的である。健康的と言うのは、物事を解決するための想像力であるが、こちらはまるで意識の解離のような非現実感がある。そして、里親家庭にやってくる子どもたちの中にも、解離を感じさせる子どもが多い。それは自分では解決できない辛い環境にながく置かれたときの一種の処世術なのだろう。解離は多重人格を育てやすい。たとえば性的な被害にあった子どもたちは、解離の末に性的に奔放な性格の人格を育てやすい。

さて、二人はお互いを知るために質問攻めになるが、ひと晩に三つずつ質問をしようとルールを作る。どうして学校に行かずにペグさんの家にいるのか、マーニーの質問にアンナは「頑張ろうとしない性格のこと」や「あたしは心配の種だから」みんな私と離れて暮らしたい、のだという。アンナの質問の番で「怖いものはある?」にマーニーは風車だと答える。これも中盤の展開に影響してくる。

ボートを降りるときに、アンナが男の子の服のような短パンをはいていることが話題になる。マーニーはイブニング・ガウンを着ている。性的な問題に踏み込んではいないが、二人の間に異性的な雰囲気が少しだけ醸し出される。

アンナはある晩、寝間着のままボートで館に向かう。館はどの窓も明るく輝き、音楽の響きが水上に漂ってくる。まばゆい照明の中でパーティがひらかれている。「これこそは自分が夢見ていたものだった」と水上で思う。マーニーは本物のパーティ・ドレスを着ている。マーニーのいたずらで、アンナは物乞いの花売り娘の役を演じさせられ、パーティに参加する。大人から次々に質問をされ、ものも言えずにいると「この子は口がきけないのよ」とマーニーがとりなす。見慣れないパーティの中で、「マーニーまでが見知らぬ他人になってしまったかのようだった」。マーニーがアンナの解離から生まれた人格だとすると、そのマーニーを他人に感じているというのはどういうことだろうか。

翌日も遅くなってから船着き場に行く。古い廃船の中で寝そべっていようと入っていくとそこにマーニーがいた。「あたし、すごく淋しかった」と言って、言ってからアンナは自分の言葉に驚く。自分の本心をだれかに打ち明けることなどこれまではなかった。でもマーニーも「私もそう」と同感する。マーニーは両親とは同居しておらず、世話をしてくれるナースとともに暮らしている。どうもその人たちに虐待をされているようだ。次の日もアンナはマーニーを探す。探しても見つからないが、突然のように「ひょいとすぐそばに現れる」。

身の上を話し合う。アンナはマーニーに言いたかった。「あなたはきれいで、お金持ちで、素敵で、あたしにないすべてを持っている」。マーニーに両親のことを聞かれて「あたしには両親はいないの。だから、そうね、養子のようなものなの。ロンドンではプレストン夫妻と暮らしていて、おじさまとおばさまって呼んでいるけど、血がつながっているわけじゃないわ」。アンナとマーニーの対称性は解離を伴って現れたもう一人の、想像で作られた人物のようにも感じられる。

ここで、アンナはマーニーに秘密を打ち明ける。「実はね、あの人たち(プレストン夫妻)、あたしの面倒を見ているのはお金のためなの」。サイドボードの引き出しにあった手紙を読んでしまったのだ。アンナは悩んだ末に夫人が打ち明けられるようにチャンスを作ってあげるが、プレストン夫人は「あなたを愛している、心配はいらない」と言うばかりで、手紙も隠されてしまった。里親家庭にはありがちなことである。養育費や里親手当てが支払われるが、ともするとそのお金のために養育をしているのではないかと誤解される。『思い出のマーニー』を里親家庭の人たち以外が読むとして、この辺の実感はどのように伴うのだろうか、と考えざるを得ない。

こんなことがあって以来、二人は毎日会うようになる。そうしたなかで、マーニーは「古い風車には近づきたくない」と告白する。理由を聞いてもごまかされてしまう。「あたしのお父さまとお母さまがどんなに優しいか! だから、あたし、ときどき、自分は世界でいちばん幸せな女の子じゃないかと思うの」とマーニーは話し、アンナも同感する。二人の人格の対称性がはっきりしていきながら、しかしアンナは「この世に生まれていちばん幸せな瞬間だった」と言う。

いとこのような存在の男の子、エドワードがマーニーの家にやってくる。

 その後、マーニーと楽しく過ごすこともあったが、「マーニーのことをあまり信頼しすぎてもいけないのだ、とアンナは思い始めた。きょうはきっと会えるという思い込みが強すぎると、逆に会えない可能性が高いこともわかった」。別な人格との蜜月が終わろうとしているのだろうか。

マーニーがどうして風車を怖がっているのか。「わからない」と言いながら、マーニーはエドワードの言ったこととして「もし本当に怖いのなら、それに正面から向き合わなければだめだ、って。そういうものから一生逃げ回って生きていくことはできない、って」と話す。

心理的な問題の和解が、大きな波のようにやってきているようだ。マーニーがどうして風車を恐れるのか。世話をしてもらっている使用人が怖がらせるのだ、と話す。「あたしが何かいたずらをすると」口癖のように言う。「そんなことをすると、あの風車小屋につれて行かれて、閉じ込められてしまいますよ」。そんな話の後にマーニーがアンナに質問をする。「あなたはだれかにおどされた体験って、なかったの?」。それに対してのアンナの反応は異常なほどだ。「そんな目にあわされたことはないわ」「腹立ちのあまり、どなるような声でアンナは言った」。まるで心当たりがあるような反応だ。マーニーから「あなたって幸せね。あたし、あなたになりたかった」。こうしてアンナは不思議な気持ちなる。「おかしいわね、あたしたち、入れ替わっているみたい」。二つの人格は和解の直前まで来ているようだ。

アンナは自分一人で風車小屋まで行って、「あたしが自分でいってたしかめたんだからまちがいないわ、と言ってやれたら、マーニーもきっと信じてくれるだろう」。「マーニーの不安はまったく根拠がないのだという証拠を。そう思うと、ひそかな興奮をおぼえた」。アンナは風車小屋におもむく。すると自分の息遣いよりも大きく、何か別の音が耳を打った。

恐る恐る梯子を上ってみると、屋根裏でマーニーが泣いていた。登ったのはいいが降りられないのだ。「下を見たら、とても怖くて」動けなくなってしまったのだ。アンナはマーニーを降ろしてあげようと穴のへりをさぐって梯子を探す。ところが「梯子が見つからないの。なくなっちゃった」。悪夢によくあるような光景だ。

しかし梯子はなくなったわけではなかった。穴の向こう側にかかっていて、アンナはマーニーに降り方を教えるが怖がって降りようとしない。そのうちにどんどん寒くなって、二人は眠ってしまった。気づくと、いつの間にかエドワードがやってきて、マーニーを救い出す。しかしアンナは一人取り残される。自分で梯子を下りて野原を歩くうち「溝に頭から突っ込んでしまった」。意識が遠のいて、気が付くとそこは自分のベッドの中だった。近所の人が助けてくれたのだ。思いだしてみると「マーニーはあたしを、風車小屋に置いてけぼりにしたんだ」「あの子を絶対に許せない」「こうなったらだれも信じられない」と思う。アンナは重い風邪をひいて二日間寝込む。三日目に入り江にやってくると、館の窓にマーニーがいた。「奇妙にゆがんだ顔で外をながめていた」。ゆがんで見えたのはガラスに雨がしたたっているせいかも知れない。マーニーは「お願いだから許して」と叫んでいるように聞こえたが、雨や風の音ではっきりとは聞こえず「まるでアンナの心の奥から叫ばれているようだった」。やっぱり友だちだったんだ、とアンナは思うが、「そのとき、不意に、ついさっきまでマーニーの姿が見えていた館が、空き家のように見えた」。ここでもアンナは悲しくなって入り江でおぼれるように倒れてしまう。それをワンタメニーが目撃して助けてくれる。

アンナは長い間ベッドから起き上がれず、里母のプレストンさんがやってくる。帰ってくるかここにいたいか自分で選べと言う。「アンナはさっと夫人を抱きしめた」。アンナは回想する。「ベッドで寝ついて以来」「溺れかける以前に起きた一連の出来事との間には、シャッターがおりてしまったような感じだった」。

元気になってから、館を入り江の方からではなく、玄関の方から眺めることになる。「正面も裏面も、同じ一つの館の二つの顔だった」とアンナは気づく。(木ノ内)


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