卒業レポート
里親制度創設期の成長と衰退はなぜ起こったのか
−戦後の社会福祉基礎構造の完成がもたらしたもの−
キーワード:児童福祉法、里親制度、里親委託率、憲法89条、社会福祉法人
指導教官:寺田 誠

2012/10/29
上智社会福祉専門学校
社会福祉士・児童指導員科
学籍番号 11402
天農 秀樹

─────── 目 次
 ───────
.研究目的
2.研究の視点および方法
3.里親制度の創設と発展期
4.里親制度の転機と同制度を取り巻く環境
5.戦後の民間社会福祉施設に対する公的助成の変遷
6.結論(里親制度の成長と衰退をもたらしたもの)
7.あとがき
8.注釈
9.参考文献

1.研究目的

 1947(昭和22)年12月に制定された「児童福祉法」では、里親による養育が初めて公的な制度として創設された(注1)。児童福祉政策の一翼を担うべく企図された里親制度は、翌年の1948(昭和23)年10月、「里親等家庭養育運営に関して」と題した通達が都道府県知事に発せられたことで名実ともに完成する。
 同制度の開始以来里親へ委託中の児童数(以下「委託児童数」という)は順調に増加し、約10年後の1958(昭和33)年にそのピーク(9,489人)を迎えることとなる。当時の里親への委託率(委託児童数に乳児院、児童養護施設入所児童数を加えた総数に対する委託児童数の割合であり以下「里親委託率」という)は約20%にも達していた(注2)。ところが、1958(昭和33)年の委託児童数のピークを境に一転して減少し始め、これに合わせて里親委託率も次第に低下してゆく。その後も委託児童数は減少の一途をたどり、その趨勢は21世紀を迎えるまで続く。同様に里親委託率もピークであった1956(昭和31)年から1957(昭和32)年にかけて20%を超えていたが、その後長期にわたって低下し、1999(平成11)年から2001(平成13)年まででついに6.3%と戦後の最低を記録する。すなわち、里親制度の開始から10年足らずの間に同制度は大きく飛躍したものの、一転してその勢いを失い急速に後退したのだった。そして、その後の約半世紀にわたる長い低迷期を迎えることになる。
 戦後初めて公的制度として体系化された里親制度が、制度発足から10年を境として、成長から衰退へと急転換したのはなぜなのか。当初の発展の原動力となったものは何であり、一方でその後の失速と後退、長期的な低迷をもたらしたものは何だったのか。里親制度を取り巻く当時の政策主体の動向から、これらの現象を関連づけることができるのではないかと考えた。

2.研究の視点および方法
 まず、当時の政策主体の動向が里親制度の普及に一定の影響力を与えていたものと想定した。そのうえで、里親制度の成長と衰退をもたらした政策決定がなされた時期は、委託中の児童数がピーク(9,489人)となった1958(昭和33)年よりも以前であると考えた。政策とその政策による成果には一定のタイムラグがあると考えられるからである。そして、里親委託率のピーク(20.7%)が1956(昭和31)年であったこと、新たに里親に委託された児童数(以下、「新規委託児童数」という)のピーク(3,038人)が1955(昭和30)年であったことから、その時期をさらに絞って1955(昭和30)年以前までとした。このようにして最終的に、里親制度に影響を及ぼした何らかの政策決定や構造変化 が、少なくとも1955(昭和30)年よりも以前に起こった(はずである)と仮定 し、この時期の政策主体動向を改めて調査対象とした。研究方法としては文献研究であり、関係図書、国会議事録、GHQ公文書、雑誌、研究論文、統計資料をできるだけ収集し参考とした。

3.里親制度の創設と発展期
(1) 「児童福祉法 」成立期における里親制度の位置づけ
 @丹羽の研究によれば、 終戦前の1945(昭和20)年6月「戦災遺児保護対策要綱案」において既に保護の方法として、T養子縁組の斡旋、U個人家庭に対する教養の委託、V集団に よる保護育成が挙げられていた。 そして終戦後の1945(昭和20)年9月「戦災孤 児等保護対策要綱」においても、T個人家庭への保護委託、U養子縁組の斡旋、V集団保護の順にかげられていた。従って、個人家庭での養育が施設による集団保護よりも上位に位置づけられていた、と述べている。[参考文献(以下、「文献」 )1)]
 A1947(昭和2 )年12月に成立した「児童福祉法 」第27条3において、都道府県知事が、「児童を里親(保護者のない児童又は保護者に監護させることが不適当であると認められる児童を養育することを希望するものであって、都道府県知事が適当と認めをいう。以下同じ)に委託し又は乳児院養護施設る者であつて、 都道府県知事が適当と認めをいう。以下同じ)に委託し、又は乳児院、養護施設、精神薄弱児施設、療育施設若しくは教護院に入所させる」処置を取るものと規定した。松本は、第27条3において、「里親委託を施設入所の前においている」ことをもって、「里親制度の重視が標榜された」[文献2)]と述べている。
 B貴田は、丹羽と松本の研究結果から、「戦災遺児保護対策要綱案」から「児童福祉法案」まで、里親等の家庭養育が一貫して、児童保護施設ないは福祉よりも前に示されるとしてとして、「法案を検討 していた当初から、 要保護児童の収容、委託先は家庭的な保護が最も望ましいと考えられてたことは明らか」[文献3)]であるとしている。
 C里親制度が「児童福祉法」に導入された理由ついて、 三吉は「児童は家庭において養育されることが最も望ましいとう思想が、里親制度を採用した理由であろう」 [文献 4)]と述べている。
 D一方、 全国社会福祉協議養護施設長などを歴任した松島は、戦前までの施設収容第一主義が困難となった理由して、T対象児童数の甚大さに加え、戦災による施設の収容能力が激減したこと、U施設の新拡張等が資金、資材等の原因で困難な事情あったこと、Vホスピタリズムを指摘されるようになったこと、WGHQ による里親委託の強力な推進、X戦前までの施設による里親委託実践がある程度の成果をあげていたこと、Y財政面で里親委託の方が施設よりも経済的あったこと、を挙げている。 [文献 5)]
 E「児童福祉法案」に対する、1947(昭和22)年9月の参議院、厚生委員会における厚生省児童局長米澤常道によると、「できるだけこの(里親)制度を今後開拓して行きまして、一つの兒童関係の有力な施設と申しますか、一つの方法というふうに育てて行きたいと考えておるのであります。」と答弁している。また、里親が良くないことをした時のために、罰則などが必要なのではないかという委員からの質問に対しても、「余りここに取締的なことをいたすよりも、むしろこれはできるだけ行政的に、指導その他によりまして開拓して行きたいというふうな意味で、・・・(中略)・・・できるだけ指導をいたしまして、この制度を盛り立てて行きたい、こういうふうに考えておるのであります。」と答えている。
 F厚生省児童局の厚生技官であった辻村泰男は、「児童福祉法」が施行され直後に発表された「戦災孤児と浮浪児」の中で、直ちに施設保護を捨てることは現実的ではないとしながらも、「理想的な状態としては、里親への委託が本来で、特殊な保護を要する児童だけが施設に送られるということが出来るようになるのが望ましい」と述べている。[文献6)]
(2)占領軍による推奨
 連合国最高司令官総司令部(以下、「GHQ」)、公衆衛生福祉局(以下、「PHW」)が1946(昭和21)年9月に「世話と保護を要する児童」と題して日本政府宛に出した覚書(指令書面)(以下、「SCAPIN」)によれば、厚生省児童局が行うべきいくつかのプログラムの中に、@里親家庭に児童を送置する活発な計画A里親家庭に対する、均一基準による適切な政府補償B適当な里親の家庭が、容易に見つけられない児童の世話と処遇に関して、公的、私的にかかわらず、施設を適切に指導監督していくこと、が挙げられている。1946(昭和21)年10月のSCAPINにおいても、児童保護を積極的に実行するためのプログラムとして、@被虐待児童を保護するための積極的な里親制度A里親に対する均一な基準による適切な政府補償B適切な里親が見つからない場合に、その児童の世話と処遇に関する公私施設の適切な指導監督、が挙げられていることから、GHQが、T里親制度を重視していたこと、また、U同制度が施設保護に優先すべきである、と考えていたことがわかる。[文献7)]
(3)里親等家庭養育運営要綱
 @里親制度は1948(昭和23)年1月の「児童福祉法」施行により効力が発生したものの、同法における里親制度の説明は、その後の3月に制定された「児童福祉法施行令」、「児童福祉法施行規則」においても、親の認定や登録について、簡潔に規定されているだけであった。従って、「児童福祉法が実施されるとまもなく里親養育の研究が始められることになり、法の里親制度に肉を盛り血を通わせる基礎作業が行われ」[文献8)]た結果、同年10月に「里親等家庭養育運営に関して」が都道府県知事に通知され、「家庭養育運営要綱」が作られた。ここに、「名実ともに整備された近代的な里親制度ができあがった」[文献8)]のである。ちなみに、この通知が出された10月4日が1950(昭和25)年以降「里親デー」とされ、さらに1954(昭和29)年以降、毎年10月は全国的に「里親委託促進月間」が催され現在まで続いている。
 Aこの要綱は、「児童福祉法で初めて取り上げられた里親制度を、児童福祉施設とならんで児童福祉の二大支柱とすべく、その運営、指導に関して細心の規定を設けている。・・(中略)・・実際の運用は主としてこの基本通達に従って行われて」おり、「この要綱が示されて以来、極めて健全な成長を続けている」と厚生省児童局厚生事務官であった網野智は認識していた。[文献9)]
 B所沢児童相談所での勤務経験もある宮島は、「この23年要綱を丁寧に読むならば、当時の厚生省が、里親制度を単に急場を凌ぐための策として利用しただけではなく、戦前から続く家庭養護への不信を乗り越え、終戦を機に自由に謳うことが可能となった新しい家族像を前提に、子どもたちの福祉を実現しようとしたと読み取ることができる。」[文献10)]と述べている。
(4)里親についての最低基準の定め
 @1950(昭和25)年5月の「児童福祉法」第4次改正において、「児童福祉施設最低基準」にならって、里親についても厚生大臣が最低基準を定めることが規定(法45条)された。
 A1950(昭和25)年4月の衆議院、厚生委員会において、児童局長高田正巳は、「現在厚生省で定められております児童福祉施設の設備及び運営についての最低基準を、里親における養育についても拡充するということであります。これは里親委託せられた児童の養育のために必要な点を定めて、里親の養育を科学的、合理的なものとし、児童の健全な育成を保障することを目的としております。そしてこの最低基準を維持するために、行政庁は里親に対して必要な報告をさせ、児童の福祉に関する事務に従事する官吏または吏員に、実地につき監督させることができることにいたしました。」と、最低基準を定める趣旨について説明している。また、同年5月の参議院、厚生委員会においても高田は次のように説明している。「先ず最低基準の内容を詳細に、今よりもう少し詳細に決めまして、おのずから金額の算定も容易になるような決め方をいたしたいと、これが先ず第一に考えられるのであります。更にもう一歩進めまして、金額で表示するかどうか、その点も或いは最低基準そのものの中に、即ち省令の中にそれを表示いたすかどうか、或いは通牒等で大体のことを示すかどうか、その辺のところは目下研究をいたしておるわけであります。」。すなわち里親養育のための最低基準を定めるということは、当該基準を守るために必要となる費用を具体的に示していくことである、という考えが示されている。
 B柏女は、2002(平成14)年にようやく最低基準ができたことで、「里親が施設とほぼ同じになった」[文献11)]と述べており、「施設等が持っている権利・義務、それと同じ権利・義務を里親も持つことになったという意味で大切」[文献11)]である、とした。この考えに従えば、1950(昭和25)年5月の「児童福祉法」改正によって追加された当該規定は(少なくともこの条文が規定された時点までは)、里親制度を児童福祉施設と「ほぼ同じ」にするものであったことになる。
(5)児童福祉マニアル
 @このマニュアルは、国連社会事業部から日本政府に派遣されたアリス・K・キャロール女史が、1949(昭和25)年11月から翌年8月まで、主に児童相談所における業務について実地指導を行った内容をまとめたものであり、厚生省児童局の編纂により1951(昭和26)年に刊行された。
 A津崎は、「このマニュアルを見ますと、ソーシャルワークの原理などの解説はたくさんありますけれども、処遇選択肢の中で里親委託のことが非常に詳しく書いてあるわけです」[文献12)]。そして「里親委託が1958(昭和33)年にピークになるわけですけれども、そのあたりまでその影響が続いていったんじゃないでしょうか。」[文献12)]と述べ、児童福祉マニアルと里親制度成長の関係性について言及している。
 B丹野も、アリス・K・キャロールが児童相談所において児童福祉に関する非常に具体的な指導を行っていることを挙げ、このマニュアルが、「家庭養育運営要綱」とともに、里親養育に関する一つの指針として位置づけられるものだろうと思います」[文献13)]と述べている。
 Cこのマニュアルは三部構成になっており、第二部では三部制(T相談部(措置部)、U一時保護ホーム、V診断指導部)からなる「児童相談所の組織」について解説されている。里親への委託措置については、T相談部(措置部)の中の処遇選択肢の中に、「里子の委託と監督」として設けられており、計12ページが費やされている。一方、施設への措置については、「児童の施設収容」として計7ページが費やされている。

4.里親制度の転機と同制度を取り巻く環境

(1)「児童福祉法」第5次改正までの経緯と幻となった「児童福祉法」全面改正
 @「児童福祉法」第5次改正は、1951(昭和26)年6月に行なわれた。この改正は、その前年の8月頃から全面的な検討が開始され、当初の改正試案においては、かなり広範な全面改正が構想されていた。ところが、諸般の事情により全文改正をとりやめるという厚生省の方針が翌年になって決定され、取り急ぎ一部改正に切り換えられたという。網野は、この改正の過程で、二つの悲運が重なったと述べている。第一の悲運は、このようにして見直しを行なった一部改正案を3月の国会へ提出することができなかったことである。この一部改正案は、「法案内容をできるだけ整理し、必要已むを得ないもののみを規定することになったのであるが、切り捨てるべき事項がそれほどなかったため出来あがった一部改正案は依然として相当の量を含んでいた」[文献14)]。にもかかわらず、第5次改正はそもそも、「社会福祉事業法」との関係で必然的な調整をしなければならない任務を負っていた」[文献14)]こともあり、社会福祉事業法案が時間ぎりぎりで国会に提出されることになったので、それとの調整を必要とする「児童福祉法」の一部を改正する法律案は遂に時間切れとなって次の時機を待たなければならな」[文献14)]くなったのである。第二の悲運は、やむなく次回5月の国会に提出すべく準備を進めていたにもかかわらず、「内閣において再開国会に提出する法案はできるだけ整理するという方針がとられ」[文献14)]、「厚生省関係の法案はできるだけ「社会福祉事業法」の制定に伴い必然的に行う改正事項にすることとされて、「児童福祉法」の一部を改正する法律案は極度に内容を整理するということになった」[文献14)]ことである。
 A厚生省児童局長であった高田正巳は第5次改正につながる当初の全面改正について、国際連合のキャロール女史からの長期にわたる実地指導によって、多くの示唆を得られたことが直接の契機であり、「わが国の児童福祉事業をもう一度ふりかえってみる動機」[文献15)]が与えられたと述べている。
 B丹野は、この「全面改正試案」を調査、分析したうえで、「里親制度の充実と振興というものをこの「全面改正試案」の中に位置づけようとしたことがうかがわれる」[文献13)]と評している。そして、「非常に簡略に施行規則などに書かれてきたもの、あるいは「里親要綱」とか「児童福祉マニアル」に依拠した運用、そういう細々したものを、とにかくこの改正試案の中に整理して制度化しようとした、その意欲は十分うかがえる」[文献13)]と述べている。「全面改正試案」作成に中心的な役割を果たした網野智厚生事務官は、第5次改正直後に執筆した「児童福祉法の解説」の里親の意義について次のように述べている。「里親制度は児童に家庭生活に準じた生活環境を与えるものとしてまず第一に活用されなければならないもの」[文献16)]であり、「従来児童の保護はいわゆる社会事業家といわれる一部の人々の専らなすべきことであると考えられがちであったが、もともと児童の福祉をはかるということは国、地方公共団体はもちろんのこと凡ての社会人がこれに参画し協力しなければならない性質のものである」[文献16)]とした。「里親制度は誰でもが里親になる申込をすることができ、しかも条件さえ合えばだれでもが里親として児童の保護をすることができ、したがってこれによって誰でもが直接に児童福祉事業に参画することができる」[文献16)]わけである。つまり、「里親制度はひろく国民と児童福祉事業を直接につなぐ重要な架橋でもある」[文献16)]のだと。丹野は、網野へのインタビュー等を通じて、「児童福祉法」の「全面改正試案」が、要保護児童対策としての里親制度から一歩前進して、「この里親制度というものに対してもっと積極的な意味を付与しよう」[文献13)]としていたと評している。
 C網野は、「全面改正試案」検討中であった1950(昭和25)年11月に発刊された「児童福祉の諸問題」の中で、次のように述べている。「里親制度は篤志家が児童をその家庭に引き入れて養育することをその特質とするのであるが、個人がその負担によっていわば慈恵的にこれを行う時代はすでに過ぎ去り、今日においてはそれは地方公共団体が行う児童福祉の措置の一手段として、適正な対価を支払う一方、里親による忠実な役務の提供を期待しなければならない」[文献8)]。従い、「かかる意味においてこの種の里親は今後大いに伸びてゆくであろうし又伸ばしてゆかねばならないものと思われる」としている。すなわち、「わが国においては里親養育ということが児童の施設保護と同じ意味において一つの職業であるという考え方が明確に打ち建てられなければならないと思う。」[文献8)]と述べている。そして「養育のために費やされた時間と労力に対して適当な対価(サービス料)を支払う必要」[文献8]があると論じた。(ちなみに、昭和26年度から、里親手当として月額250円程度の予算化がなされた(注3)。)
(2)棚上げとなった里親の最低基準設置
 @既に述べた通り、1950(昭和25)年5月の「児童福祉法」第4次改正では、里親についての最低基準を定めることが規定された。同年10月の参議院、厚生委員会では、来年度から新たに予算化された里親手当について、高田が次のように述べている。「里親につきましては、私共といたしましては相当程度増額をいたしまして、うんと伸ばしたいという希望を持つておつたのでありますが、諸般の関係から結局は年三千円、従来なかつた手当が月二百五十円、それが従来のものに附加されるという程度のところにしかまだやることになつておりません。甚だ遺憾でありますけれども、一つこの程度でもつて馬力をかけてやりたい、かように考えております」。最低基準を定める規定がされたものの、これを具体化するまでには至っていないうえに、甚だ遺憾な水準の里親手当しか予算化されなかったのである。こうして当該規定にもかかわらず、2002(平成14)年になるまで、この最低基準が定められることはなかった。
(3) 児童憲章の制定
 @1951(昭和26)年5月5日の子どもの日に、すべての児童の幸福をはかるための国民の規範とも言える「児童憲章」が制定、宣言された。この憲章が制定された背景について、厚生省児童局事務官であった田代不二男は次のように説明している。「わが国としては、戦後画期的な児童福祉法が制定せられ、一応児童の福祉に関する法的保護は保証されたのであるが現実の世界を見るに、子供を私有物視し、甚だしきは子供を売買の対象とする親もあって、子供を一個の人格として尊重し、その権利を認めてやるところまでには進んでいない、児童の権利憲章とも称すべきものを制定して、明るい未来を児童に国民全体の責任において確保するように努力することは、この際最も時機を得たものと思われる。」[文献8)]。そして「児童憲章」の第2条においては、「すべての児童は、家庭で正しい愛情と知識と技術をもって育てられ、家庭に恵まれない児童には、これにかわる環境が与えられる。」とされた。そして、「この憲章と同趣旨の児童権利宣言が八年後の昭和三十四年の国連総会で採択されたことを考えると、当時における関係者の熱意と先見性は高く評価されてよい」[文献17)]とされ、同憲章の制定に大きな価値が認められているのがわかる。
 A丹野は、幻となった「児童福祉法」全面改正の検討が、児童局の企画課において「児童憲章の制定のプロセスと軌を一にしていた」[文献13)]事実を、児童憲章制定の経過を研究することによって明らかにしている。

5.戦後の民間社会福祉施設に対する公的助成の変遷
(1)終戦から新生活保護法制定(1950(昭和25)年)の直前まで
 戦前の(民間)社会(福祉)事業は、国や地方公共団体からの補助金収入もさることながら、財産収入、寄付金、事業収入等の自主財源によっても多くが賄われていたようである。しかし、1945(昭和20)年の敗戦によって、「民間社会事業施設においてもその多くは潰滅状態に陥り、戦前6,000にも及んでいた施設は、戦後3,000程度に激減」[文献18)]するとともに、「残存したものにあっても物資の欠乏のため経営は困難となり、機能は著しく低下」[文献18)]してしまう。
 1946(昭和21)年2月にGHQが日本政府に応答した「社会救済」(SCAPIN775)による国家責任、無差別平等、必要充足の原則に基づき、同年9月、旧「生活保護法」が制定された。同法に基づく保護施設の中には、1947(昭和22)年制定の「児童福祉法」に基づく養護施設の前身でもあった、孤児院、育児院、被虐待児収容施設、浮浪児収容所なども含まれていた。同法の制定により、「市町村以外の民間人が設置する保護施設も、市町村から収容の委託を受けた場合(委託を拒否することはできなかった)、その運営費及び事務費を受け取る」[文献19)p145]方式である措置委託が認められた。また、民間人が設置する保護施設の設備に要する費用については、国が2分の1、都道府県が4分の1を補助しなければならなかった。ところが、「1946(昭和21)年10月30日の「政府の私設社会事業団体に対する補助に関する件」の覚書により、補助の途が著しく狭められ、現存する民間社会福祉施設のみに、しかも公設社会福祉施設がない場合等に限って補助が行われることとされ」[文献19)p157]、同年4月30日に遡及適用されたのである。更には、当該覚書により承認されていた限定的な民間社会福祉団体に対する補助金も、1947(昭和22)年5月に憲法第89条が施行されると、「まったく支出できなくなった」[文献20)p122]。そして、同年12月に制定された「児童福祉法」においてはそもそも最初から、「民間児童福祉施設に対する補助規定が設けられなかった」[文献19)p157]のである。即ち、この時点で、民間児童施設の設備費に対する公的補助の途が完全に閉ざされたのだった。
 その後、1948(昭和23)年12月に予定されていた児童福祉施設最低基準の導入に先立ち、厚生省児童局長として、この最低基準を達成するための施設改善に要する公的補助の適用を求めたが、憲法89条に違反するという理由で、PHWは認めなかった。1947(昭和22)年5月に施行された憲法89条では、「公金その他の公の財産は、宗教上の組織もしくは団体の使用、便益もしくは維持のため、又は公の支配に属しない慈善、教育もしくは博愛の事業に対し、これを支出し、またはその利用に供してはならない」と定められ、民間社会事業に対する公的補助は、憲法レベルで禁止されたのである。
(2)新「生活保護法」制定から措置制度の完成まで
 1947(昭和22)年5月の憲法第89条施行以来全面禁止となっていた民間保護施設への公的補助は、民間の社会福祉施設関係者の強い要望もあり、1950(昭和25)年5月に制定された新「生活保護法」において、厳しい条件付きながらもようやく認められた。即ち、「生活保護法第74条では、民間保護施設の利用がその地域の被保護者の保護に極めて効果的であり、かつ、公的な保護施設がないか、その供給余力がないときに限って、都道府県は既存の保護施設の修理、改造、拡張又は整備に関してのみ、民間保護施設への補助が認められることとなった。なお、補助を受けた民間保護施設に対して、業務・会計状況の報告、予算変更の勧告、職員解職の勧告という「公の支配」が課された。こうして、「公の支配」に服する民法の規定による公益法人の設置した保護施設に対し、施設整備費を助成する道が拓かれることになった。」[文献19)p158]のである。
 1951(昭和26)年3月には「社会福祉事業法」が制定された。そしてこの時、「公の支配」に属する特別法人として、厚生省所轄の特別法人としての「社会福祉法人」が創設されることとなった(注4)。同法においては、社会的弱者を対象とした主に収容施設系の事業を「第一種社会福祉事業」としたうえで、その経営主体を原則として国、地方公共団体または「社会福祉法人」に限定した。第一種社会福祉事業には、「児童福祉法」による児童福祉施設である乳児院、母子寮、養護施設などが限定列挙されている。同法第56条では、民間社会福祉事業を行う「社会福祉法人」に「公の支配」の下で助成(補助金を支出し、又は通常の条件よりも当該「社会福祉法人」に有利な条件で、貸付金を支出し、若しくはその他の財産を譲渡し、若しくは貸し付けること)を行うことを規定していた。しかしながら助成を行うことができるのは、「災害によつて破損した場合において、緊急にこれを復旧する必要があると認めるとき」に限定されていた。なお、「生活保護法や児童福祉法は「社会福祉事業法」に優先したので、「社会福祉事業法」の助成規定が適用されるのは、身体障害者福祉法の分野が主要なものであったが、その対象は著しく限定されていたのである。」[文献19)p159]
 1951(昭和26)年6月にはついに「児童福祉法」第5次改正において、(新「生活保護法」と)同趣旨の規定が設けられ、民間児童福祉施設関係者の積年の要望であった施設の設備費に対する公的助成が実現することとなった。すなわち、都道府県は次の2つの条件に該当する場合には、民間児童福祉施設について、修理、改造、拡張又は整備に要する費用(国が2分の1、都道府県が4分の1)を補助できることとなった。第1の条件は、当該児童福祉施設の経営主体が「社会福祉法人」か又は公益法人であること、第2の条件は、同種の児童福祉施設が必要であるにもかかわらず、その地域に公立施設がないか又はあってもそれが十分でないこと、であった。新「生活保護法」と同様、施設の新設の場合は除外されていた。また、助成をした法人に対しては業務、会計、予算、人事について特別の監督がされたのは新「生活保護法」と同じである。
 児童福祉施設設備費に関する当初予算額ベースの推移(図2)によると、1950(昭和25)年度より予算額が大幅に増加している。児童福祉施設には、養護施設以外にも乳児院、肢体不自由児施設、保育所等様々な施設が含まれており、施設別の設備費補助の内訳は不明であるが、より詳細な1965(昭和40)年度以降のデータより推定すると、養護施設の設備費補助全体に占める割合は1割程度と思われる。なお、1951(昭和26)年に制定された「社会福祉事業法」や第5次「児童福祉法」改正による公的助成の緩和規定にかかわらず、1950(昭和25)年度から既に公的助成が伸長している理由は予算額であるとはいえ不明である。
 このように一連の法律制定のプロセスによって北場は、「民間社会福祉事業に対して公的な措置委託の対価として運営費を支払うとともに、《施設の設備費については・・筆者が追記》「公の支配」に属する「社会福祉法人」(一部公益法人を含む)に対してのみ公的補助・助成を行うという戦後の「措置制度」が完成した」[文献19)p165]と述べている。また、戦後の措置制度について、「戦前の「救護法」や「社会事業法」などに規定された民間社会事業への類似の補助制度と比較すると、民間社会福祉事業への運営や施設整備に必要な費用の大部分を補助するという点で、給付レベルも補助率の水準も戦前と比べものにならないほど充実したものであった。」[文献19)p160]とも述べている。
(3)社会福祉法人に対する助成制度の充実
 1952(昭和27)年4月のサンフランシスコ平和条約発効によりGHQによる占領期が終了し、わが国が再び独立国家としての道を歩み始めた。1953(昭和28)年8月、「社会福祉事業振興会法」が制定され、翌年4月には、社会福祉事業振興会が設置された。同振興会の業務は主として、「社会福祉法人」に対し、福祉施設の修理、改造、拡張、整備、災害復旧に要する資金、その他経営に必要な資金の貸付を行うことであった。振興会設立から4年間の融資実績は累計で約4億3千万円と順次拡大したが(図3)、政府による出資が充分でなかったため、比較的小規模でしかも緊急を要する事業についてのみ融資されたようである。
 「社会福祉事業振興会法」の制定と同時に、「社会福祉事業法」に基づく設備費に対する「社会福祉法人」への助成の対象を災害復旧の場合に限定する規定につき、私立学校並みの「必要があると認めるとき」と改められた。すなわち、施設の新設・改修の場合にも補助が可能となった。
1953(昭和28)年8月の社会福祉事業法改正によっても、これまで対象外であった児童福祉施設を新設する場合の補助についても、1967(昭和42)年の「児童福祉法」改正により、「社会福祉法人」に限ってその対象とされることとなった。
 このように、「民間社会福祉事業に対する公的助成は、社会福祉法人が運営する社会福祉事業に集中するようになり、また、民間社会福祉事業の社会福祉法人化も進展した。こうして社会福祉法人立の民間社会福祉施設が増加し、事実上、措置制度下の民間社会福祉事業を独占化する」[文献20)p197]に至ったのである。
入手できたデータ上の制約により、「社会福祉法人」創設時からの推移は不明であるが、1950年代から1960年代にかけて、養護施設における社会福祉法人化が著しく進行したことがわかる。反面、その他の私立の施設は、1956(昭和31)年から10年間で約半減し、公立は、1959(昭和34)年のピーク時から減少傾向にある。(図4)

6.結論(里親制度の成長と衰退をもたらしたもの)
(1)政策主体の動向
 これまで論じてきた中で関連する制度、政策の経過を時系列でまとめると以下の通りとなる。
(2)里親制度の成長をもたらしたもの
 里親制度が1947(昭和22)年に創設され、1958(昭和33)年に委託児童数のピークを迎えるまでに至った原動力とは何だったのか。まず第一に、家庭における養育が児童保護の方法として本来望ましいものであり、施設保護に優先すべきであるとする思想が厚生省内に形成されていたこと、第二に、このような思想や理念に基づいて里親制度をわが国で普及させていきたいという強い意欲が厚生省内に存在していた、ことが挙げられる。これら第一、第二の原動力は、@終戦前の「戦災遺児保護対策要綱案」に始まり、最終的に「児童福祉法」が制定されるまでの一連の法案作成の過程において、一貫して家庭養育重視の考えが示されていたとする複数の研究者による論文A「児童福祉法」制定時における児童局長の国会での説明B「児童福祉法」制定直後に発表された児童局厚生技官による著書C里親制度を児童福祉施設とならんで児童福祉の二大支柱とすべく研究のうえ作成された「家庭養育運営要綱」Dさらに通達レベルであった「家庭養育運営要綱」に対して、制度の一層の充実化を図って児童福祉施設と「ほぼ同じ」にするために第4次「児童福祉法」改正において規定された「里親についての最低基準の定め」E施設収容よりも多くのページを割いて里親委託に関する指針を示した「児童福祉マニアル」の存在等に表れている。そして第三に、本国では里親制度の普及で先行するGHQからも強い推奨があったことは、厚生省による政策に大きな影響を与えていたSCAPINにおいて確認できた。また、第四に、現実問題として戦災で保護施設の収容能力が激減していたうえに、資金不足によって修復や新設が困難であったことから、供給力不足を里親開拓で補う必要性もあった。これら政策主体からの要請が、里親制度導入直後からの急成長の原動力となったのではないだろうか。
 加えて、制定3年後に全面改正を試みた「児童福祉法」においては、里親制度の一層の整備、拡充を図るべく、同制度に積極的な意義を与えようとした。すなわち、里親制度を一部の篤志家による社会事業としてではなく、すべての社会人にとって開かれた制度、「誰でもが直接に児童福祉事業に参画することができる制度」[文献16)]としての普及振興を図ろうとしたのである。里親制度が「ひろく国民と児童福祉事業を直接につなぐ重要な架橋である」[文献16)]と述べたその言葉の中に、当時の政策担当者の熱い思いを感じることができる。そして、「児童福祉法」の全面改正に向けた勢いは、その思想的バックボーンでもあった「児童憲章」の制定・宣言へと結実することとなる。
(3)里親制度の衰退をもたらしたもの
 ところが、「児童憲章」の制定プロセスと表裏一体であった「児童福祉法」全面改正は幻に終わってしまう。里親制度の変調を暗示させるこの出来事はどのようにして起こったのであろうか。厚生省児童局長であった高田正巳は当初の「全面改正試案」について、厚生省の方針として「諸般の事情」で取りやめになったと記している[文献15)]。さらに網野は、この改正の過程における悲運として、1951年3月に制定された「社会福祉事業法」が優先されたことをあげている。すなわち、「厚生省関連の法案はできるだけ「社会福祉事業法」の制定に伴い必然的に行う改正事項にすることとされて、児童福祉法の一部を改正する法律案は極度に内容を整理する」こととなったのである[文献14)](注5)。
 里親制度の衰退は、その代替的児童保護の方法であり、かつその主流でもあった養護施設の動向と無縁ではない。すなわち戦後の要保護児童に対する収容力不足を背景に、養護施設の充足率(定員に対する在籍人数)は1955(昭和30)年まで100%を超えていた(注6)。従って、戦争によって壊滅的な打撃を被った保護施設を一刻も早く復旧することは多くの社会事業関係者において切実な願いであった。
 このような情勢のもと、1946(昭和21)年2月、GHQから示された覚書「社会救済」(SCAPIN775)(注7)、同年10月30日に同じくGHQからの「政府の私設社会事業団体に対する補助に関する件」は、民間の社会事業施設に大きな打撃となった。すなわち、同事業に対する設備に要する費用の公的助成が、一部の例外を除き禁止されることになったのである。さらには1947(昭和22)年5月に施行された憲法89条において、公の支配に属さない民間社会福祉事業に対する公金の支出が禁止されたため、公的助成の途が完全に絶たれてしまうことになった。同年12月に制定された「児童福祉法」では民間児童施設の設備費に対する規定が始めから規定されず、翌年12月に導入された「児童福祉施設最低基準」を達成するための資金確保もままならず、多くの児童福祉施設は一層の苦境に陥ることになったのである。
 民間児童福祉事業者の長年の悲願が実現したのは1951(昭和26)年6月の第5次「児童福祉法」改正によってである。すなわち@「社会福祉法人」または公益法人に対して、A公立施設による供給が不十分であるときに限り、既存施設の修理、改造、拡張又は整備に要する費用を補助される途が開かれることになった。「社会福祉法人」は同年3月に制定された「社会福祉事業法」により、「公の支配に属する」特別法人として創設されたものである。同法においては、主に収容施設系の事業を「第一種社会福祉事業」としたうえで、その経営主体は原則として国、地方公共団体または「社会福祉法人」に限定されていた。「児童福祉法」に基づく養護施設は、「第一種社会福祉事業」として限定列挙されたのである。
 既に図4において見た通り、社会福祉法人制度創設直後より民間の養護施設は急速に社会福祉法人化したことが推定される。そして図5に見られるとおり、養護施設に収容された在籍者数においても、社会福祉法人は1961(昭和36)年に23,807人とピークを迎えるが、1965(昭和40)年までほぼ横ばいとなっている。これに対して、「公立施設」では1958(昭和33)年のピーク時から、また「その他の私立施設」では1959(昭和34)年のピーク時から、1965(昭和40)年までにそれぞれ21%、47%も減少している。さらに里親制度による里子の委託児童数においても、1958(昭和33)年のピーク時より27%の減少となった。
 このように、「社会福祉法人」を社会福祉事業のプラットフォームとする措置制度の枠組みが完成し、さらには同法人に対する優遇策と相まって、養護施設の社会福祉法人への集中化が進展した(注8)。すなわち、同法人以外の設置主体における在籍者数は軒並み大きく減少したにもかかわらず、「社会福祉法人」の在籍者数はピーク時を維持し続けていた。そして、里子の委託児童数もこの時期激減する中、「社会福祉法人」による独占化が進んだのである。
 このようにして里親制度は、1951(昭和26)年の「社会福祉事業法」の制定、同法制定に伴う「社会福祉法人」の設立、さらには同年の第5次「児童福祉法」の改正等、戦後の措置制度の完成による構造的な枠組みの変化によって、その位置付けが変容したと言えないだろうか。里親は、「社会福祉事業法」における社会福祉事業(児童福祉事業)すなわち里親事業としては列挙されなかった。里親はあくまでも個人の篤志家による活動であるから法定事業としては認められなかったのであろうか。しかし、児童局厚生事務官であった網野智は、里親制度について「誰でもが児童福祉事業に参画すること」[文献16)]が可能であり、「ひろく国民と児童福祉事業を直接につなぐ重要な架橋」[文献16)]となることを期待していた。またそのためには、米国の例にならい、第一に、「里親養育に関して必要とされる最低の基準を設けてその指導監督にあたる」[文献8)]こと、第二に、「里親家庭の調査、委託後の訪問指導等を科学的合理的に行う」[文献8)]こと、第三に、「里親養育も児童福祉事業の重要な一部門であって、児童福祉施設が適当な対価をうけてそのサーヴィスを忠実に履行するのと同じ意味において里親養育も職業として行われて然るべきである」[文献8)]ことを構想していたのだ。里親の最低基準を設けて里親養育に厳しい規制を課し、必要な指導・助言が適切に行われ、一方で里親の提供するサービスの有料化を図ることで、名実ともに児童福祉事業の一翼を担う役割へと格上げする道筋(注9)は、「社会福祉事業法」の制定に象徴される社会福祉事業の「公による支配」や、「社会福祉法人」を受け皿とした公的支援の集中化など一連の政策によって、置き去りにされてしまったとは言えないだろうか。
 戦前から児童保護事業は民間にその多くを依存していた。戦後、多くの民間施設が窮乏化する中で、いかに公私分離に基づく公的責任を果たそうとしても、実質的には民間事業を活用する以外にこの難局を乗り越えるすべはなかった。公は、民の提供するサービスに対価を支払う措置委託方式によって、戦前における官民一体政策をある面再現させたことになる。憲法89条によって、公から民への公金支払いは明確に禁止されたものの、現実には民間施設の力に頼るしかなかった政府は、措置委託を継続しながらも、公の支配に属する民という、摩訶不思議な特別法人を創造したうえで民に対する助成を拡大したのである。この逆説的な解釈によって公から民への助成は何とか可能になったものの、その後の憲法解釈において論争を招くほどのこの苦肉の策がもしも実現していなければ、公立施設だけでは到底まかない切れなかったであろう児童保護の多くを、里親が担っていたのではないだろうか。そして里親制度は失速することなく成長を続け、民間施設養護に代わって、大きな位置を占めることになっていたかも知れない。民間社会福祉事業の主体となった「社会福祉法人」等に対する措置委託制度と、施設の設備費については「公の支配」に属する「社会福祉法人」(一部公益法人を含む)に対してのみ公的補助・助成を行うという戦後の「措置制度」の完成、すなわち「日本的公私関係」(注10)を根幹とする戦後の社会福祉基礎構造(注11)の完成こそが、里親制度の成長にブレーキをかけ、さらにその後の長期低迷をもたらしたのではないか、という問いかけをもって本研究の結論と致したい。

7.あとがき
 本研究をスタートしたそもそもの発端は、里親制度が発足してからたかだか10年程度の間に、同制度が成長から衰退へと急転回したことに対する違和感や不自然さであった。この間の成長と衰退の始まりをもたらしたものは何だったのか。そこには、何らかの強い力が働いたのではないのか。当時の政策主体による里親制度に対する取組み姿勢や同制度を取り巻く諸施策の中にそれを見い出したいと思った。この強い力を探求する旅をしているうちに遭遇したのが、「児童福祉法」の全面改正を阻んだ「社会福祉事業法」の創設である。ここで初めて、里親制度を取り巻く諸制度や戦後の福祉改革によって生み出されようとしていた枠組みとの関係を意識するようになった。こうしてたどり着いた仮説は、本研究のテーマに対する問いかけであるとともに、半世紀にもわたり続いた里親制度の長期低迷をも構造的に決定づけた可能性がある(注12)。そもそも我が国において里親制度がこのように低迷している点については、これまで多くの研究者らによって様々な理由が論じられてきた。@血縁を重視する排他的な国民性A児童相談所の消極性や児童福祉司によるケースワーク体制の不充分さB社会全般の関心の低さC里親側の力量不足D養育里親と養子縁組との混同による混乱E児童の実親(保護者)が里親委託を望まないF里親に対する支援の不足、などである。ちなみに、低迷を続けてきた里親委託率は、2000(平成12)年前後の6%台前半を底に反転し、2011(平成23)年度末には13.6%にまで上昇している(注13)。2000(平成12)年と言えば1951(昭和26)年の制定以来大きな改正の行われていなかった「社会福祉事業法」を始めとする社会福祉事業、「社会福祉法人」、措置制度など社会福祉の共通基盤制度について、大きな見直しがあった「社会福祉基礎構造改革」の年であった。この年を機に、里親委託率がわずかづつ上昇を始めたのは単なる偶然であろうか。
 研究をして個人的に得られたのは、当時の厚生省児童局の官僚による、里親制度の普及に向けた熱い思いに触れることができたことである。そして、敗戦から立ち上がり、新しい時代に向けて、未来を担う子どもたちの幸せを願って制定された「児童福祉法」や「児童憲章」の理念にも、共感できたような気がする。私が最も印象に残った里親制度への思いがつまった網野の言葉を改めて引用のうえ、本研究を締めくくりたい。「里親制度はひろく国民と児童福祉事業を直接につなぐ重要な架橋でもある」[文献16)]。

8.注釈
(注1)
我が国の里親養育の歴史は、平安中期(1000年頃)後一条天皇の時代に貴族の子女が村里に預けるという貴族的慣習から始まったと言われている。その後明治時代には、石井十次による岡山孤児院でも見られたような児童収容施設から農村家庭へ児童を預ける風習が形成され、それは経済不況下の大正から昭和にかけて一時活発化したという。第二次大戦中は食糧事情もあり激減したものの、このように戦前までの里親制度は社会慣習として存在していた。
(注2)
わが国の社会的養護はその特徴として施設養護が中心であり、里親委託率は10%前後というのが定説であった。里親制度創設期に一時的とは言え20%を超えていた時期があったことはあまり知られていない。
(注3)
昭和26年度から昭和38年度まで月額250円、昭和39年度から昭和46年度まで月額500円、昭和47年度から昭和48年度まで1,000円、昭和48年度2,000円、昭和49年度3,000円、昭和50年度から昭和52年度9月まで4,000円、以降未調査。ちなみに、養護施設の昭和26年度事務費は月額1,400円。また、消費者物価指数を参考に当時の貨幣価値が現在の10倍であったと仮定すると、昭和26年度の里親手当は現在の貨幣価値で見ると2,500円程度である。なお、平成21年度にはこれまでの34,000円から72,000円に引き上げられている。
(注4)
「社会福祉法人」は、憲法89条の「公の支配に属さない」民間社会福祉事業に対する公金支払い禁止規定を回避するために、「公の支配に属する」法人として社会福祉事業法において創設されたと一般的には理解されている。しかし北場は、「社会福祉法人」の創設よりも前に、1950(昭和25)年5月に制定された新生活保護法に規定された「公の支配に属する」公益法人に対して、施設整備費を助成する道が既に拓かれていたことを指摘している。そのうえで、「社会福祉法人制度は、授産事業が起こした不祥事のために社会福祉事業の社会的信用を失墜させ、経営上も新規課税という不利な情勢を招いたことに対して、社会福祉事業の社会的信用を守り、経営上も有利な条件を確保するために創設されたものである」[文献20)]としている。
(注5)
「全面改正試案」が極度に整理された法案として衆議院に上程されたのは1951(昭和26)年5月
18日であった。その日が児童憲章制定記念第5回児童福祉大会の開催日でもあったことを感慨を込めて語った厚生省児童局企画課長である川嶋三郎について、「恐らく児童憲章の制定と、この児童福祉法の全面改正というものの実現を、夢に描いたのではなかっただろうか」[文献13)]と丹野は述べている。
(注6)
終戦当時の児童保護の対象は、戦災孤児、浮浪児が中心であった。辻村は「戦災孤児と浮浪児」において、浮浪児には家庭があるにもかかわらず浮浪生活を送っている「家出児」が相当含まれていると指摘している。また、1953(昭和28)年6月の「全国要保護児童調査」によれば、養護施設への入所を要する児童は18,400人と推定している。[文献26)]また、全国の養護施設の充足率(入所定員に対する在籍人員の割合)の推移は以下の通り。統計上は1953(昭和28)年以降となっているが、それ以前においても充足率は100%を超えていたものと思われる。
(注7)
SCAPIN775は、「国家責任」「無差別平等」「必要充足」の3原則を示し、日本の公的扶助の原則を確立したものであるとの見方が一般的であるが、北場は、戦後直後の国民の最低生活保障を国家自らが実施するという「国家実施責任」に重きを置いたものであると述べている。民間社会事業に対する補助金禁止化の始まりであったと言える。
(注8)
養護施設の「社会福祉法人」による集中化は、養護施設全体に占める「社会福祉法人」のウエートが高水準であることからも明らかである。
(注9)
2009年4月に施行された改正児童福祉法において、従来の里親が大きくなったと言われる「小規模住居型児童養育事業(ファミリーホーム)」が創設され、社会福祉法において第二種社会福祉事業とされた。2012(平成24)年3月時点の速報値によると、145か所、委託児童数686人となった。
(注10)
「公私関係」とは一般的に政府部門とその他の民間部門との関係のことである。北場は、戦後の占領下での福祉立法において、公私関係を規制した諸原理は、「@国家による実施責任とそれを他に転嫁することの禁止、A公的社会福祉事業と私的社会福祉事業との間の活動分野と財政責任の分離、B公の支配に属さない民間福祉事業に対する公金の支出の禁止」[文献35)]であったとしたうえで、しかしながら「日本的事情により、これらの原理はそのままの形での実現をみなかった」[文献35)]としている。すなわち、「国家の福祉事業が民間社会福祉事業に委託され、公的資金の支出は「公の支配に属する」民間社会福祉事業に集中した」[文献35)]のであって、部分的に先の諸原理を変更するものであって、「日本に特有な公私関係」[文献35)]であると述べている。
(注11)
社会福祉基礎構造とは1951(昭和26)年制定の「社会福祉事業法」によって整備された「新生活保護法」、「児童福祉法」、「身体障害者福祉法」などの社会福祉関係法に共通する実施体制」[文献36)]のことである。「社会福祉事業法」において、「社会福祉事業の範囲をはじめ、福祉事務所を中軸とした社会福祉行政、社会福祉法人、社会福祉協議会、共同募金などの民間社会福祉経営の組織と財源、社会福祉の公私分離の原則と措置委託などを規定し、わが国の社会福祉を誰がどのような組織を通じて実施するのかを明確」[文献36)]にした。これによって、「生活保護法以下の各分野別のサービスに関する社会福祉関係法の実施体制を社会福祉事業法が基礎構造として支えるという構図」[文献36)]が完成した。
(注12)
わが国の里親委託率は以下のグラフ(時点は2010年前後)の通り、欧米主要国に比べて著しく低いことがわかる。ただし、ギリシャ、スペイン、ポルトガルの里親委託率は10%前後(1992年時点)と施設委託依存度は高い[文献34)p259]。
注13)
里親等委託率は、2002(平成14)年度末の7.4%から、2011(平成23)年度末には13.6%に上昇した。(委託児童数も1999(平成11)年度末の2,122人より2011(平成23)年度末の4,930人へと2.3倍となった。)なお、2010(平成22)年1月に閣議決定された「子ども・子育てビジョン」において、家庭養護の推進を図るため、ファミリーホームを含めた里親委託率を2014(平成26)年度までに16%に引き上げる目標を定めている。

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